アリー・バーリンさんは、3年前に23歳の若さで脳卒中になり、絶望の淵に立たされた女性。彼女が長いリハビリを乗り越え、トレーナーとして再起するまでの道のりを、コスモポリタン アメリカ版に語ってくれました。

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「自分が口から泡を吹いていることに気づいたとき、私は食器を洗っていました。空想でもしていたのだろうと思ってツバを吐き、携帯電話に音声入力して天気を調べようとしたのですが…うまくいきません。しゃべれないんです。何か口から音が出て来たのですが、どう考えても英語には聞こえません。もう一度試してみることにしましたが同じ。話せない。つぶやきのようなものが聞こえるだけ。ボーイフレンドに電話しようとしましたが、携帯のロックを解除できません。脳はタッチすべき数字を知っているのに、指が言うことを聞かないという感じでした。

私にはとてもこれが現実とは思えませんでした。

100万回とも思えるほど試した末、ついに彼の番号に電話することができました。彼は私に救急センターに行くように言い(幸い、家から数ブロック先にありました)、彼もそこで待っていると言いました。病院のすぐ近くに行くまで、これが本当に現実だとは思えず、私はパニック発作を起こしました。頬には涙が流れているけれど、しゃべることはできませんでした。受付でサインをしようとしましたが、字を書けません。ただ、ぎこちない、ぐちゃぐちゃの線だけ。

私はしゃべれないんです。つぶやきのようなものが聞こえるだけ

『ドラッグはやっていますか? 正直に答えて下さい』。私を診たすべての医師が聞きました。診断を下すことができないため(私はドラッグに手を出したことがないので)、彼らは私をセント・ジョンズ病院に送りました。そこである医師が、あまり深刻ではない症状から判断して、私の心配を打ち消し、単なるパニック発作だと言いました。その夜私は帰宅し、明朝目覚めるかどうか確信もないまま、胸の上にネコを乗せて寝ました。

翌朝、自分が正気だと知ると、メソジスト病院の神経科を予約し、検査をしてもらいました。『ドラッグはやっていますか? コカインは?』――これは必ず最初に聞かれる質問です。結局、私は脳卒中を起こしたのだと伝えられましたが、理由は誰にも分かりませんでした。

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その後はすぐにたくさんのリハビリが待っていました。理学療法士、作業療法士、言語療法士によるリハビリが私のフルタイムの仕事になりました。私はその場所で最年少だったので、よく他の患者さんたちに『あの子はどうしたのかしら?』という目で見られました。

脳卒中以来、歩けることは歩けましたが、足を引きずっていたし、お尻がフラフラしていました。ちょっとした動作が難しいことも分かりました。トランプを切ったり、リップクリームを塗ったり、何かを2つに切ったりする、微細運動技能と呼ばれるものです。また、のどが狭くなっていたようで、少しずつうまく食べ物や飲み物を口にいれないと、のどが詰まりました。話すことにも困難なときがあり、言語療法士さんから毎回たくさんの宿題をもらいました。私は自分が小学2年生に戻ったような気がしました。

何が辛いって、芸術で学位を持っているのに、もう絵を描けないということです

作業療法士さんが指導教授に相談してみることを提案してくれたのですが、彼女の返答はとても親切なものでした。今の画法を大切にすること、そのうちに自分だけのスタイルを見つけるだろうと言ってくれたのです。でも、正直に言って、私はそうしたくはありませんでした。自分の昔のスタイルを取り戻したかったのです。これは私をもっとも感情的にしたことの1つでした。大学時代は、ギャラリーの美術展でベストデザイン賞を獲得したこともありました。それが突然取り上げられてしまったのです。

リハビリを始めて数カ月後、私はお風呂で転びました。病院に逆戻りです。それはちょうど1カ月間つけていた心臓のモニター結果が出る頃で、私の病名は心房粗動という不整脈の一種。遺伝性の甲状腺機能亢進症によるものでした。私は胸の皮膚のすぐ下に小さなチップを入れることになり、回復から数歩後退しました。落胆しましたが、より努力するようにしました。

それから1年も経たないうちに、リハビリはすべて終わりました。私は現実と向かい合うのが不安でした。リハビリ生活が心地よくて、止めたくないような気持ちさえあったのです。私は自分のケアをする自信がありませんでした。ボーイフレンドがマニキュアをつけてくれたときは、自分も少しは普通の23歳みたいだと思えましたが、問題はそう簡単ではありませんでした。

私は毎日泣き崩れていました。顔を帽子で隠し、笑うときは口を覆いました。あるとき、昼食を作ろうとしたのですが、あまりに手が震えて諦めました。空腹さえも、もう一度料理を試す動機になりませんでした。私はキッチンの床に突っ伏して泣きました。演技がかっていたかもしれません。もう一度試せばよかったのかもしれません。でも、それが何だというのでしょう? 私たちは人間で、気弱になることも脆くなることもあるんです。

あれから3年が経ちましたが、今でも問題はあります。疲れ切っているときは舌がもつれるし、文字を読むのもいまだに課題です。一度にいくつものことをするにはとても努力がいります。でも、あまり文句は言えません。今回の回復を通して、私は自分の体がどれだけ自分を愛してくれているか知りました。私の体も脳も、回復しようととても努力してくれたのです。

聖書の中に『あなたの体は神の聖なる神殿である』という言葉がありますが、そのとおりです。健康的なライフスタイルと自己愛によって、大切にしなければいけません。初めて手すりにつかまらずに階段を下りられたとき、私は泣きました。初めて普通にランニングマシーンの上を歩けたときは、もう下りたくないと思いました。脳卒中の後、初めて走れたときは、ワッと泣き出したものです。

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ワークアウトをしていて、もうこれ以上できないと思ったときは、こういうことを思い出して、がんばります。いまだになぜ脳卒中になったのかは分かりませんが、それによって自分がかなり強くなったことは分かっています。フィットネスと健康に対する私の情熱は以前と違います。もちろん、こんなことを書くこともありませんでした。私は地獄を見たことでそれを発見したのです。肉体的にも、精神的にも。今、私は人々に影響を与えたいと思っています。人間が本当はどれだけ強いか、示したいのです」

※この翻訳は、抄訳です。

Translation:mayuko akimoto

COSMOPOLITAN US